私と世界の妥協点。あるいは私の弱さ

時間を置いてみたら、自分からみても戯言・妄想爆裂なんで。そこら辺は気にしないでください。
客観的な、誰からみても唯一の正義、正しさはなく、それは自らの主観で何が正しく、何が正しくないのかを定義しなければならない。
ある選択をするということは、別の選択を切り捨てるということで、その選択が正しかろうが誤っていようが、私はその自ら選んだ選択を歩んでいかなければならない。その先に何があるか分からなくても。その先にあるのが圧倒的な破滅であったとしても。
自らの主観に確信を持って、ある選択肢を選んだとしても、それは世界(大多数)の正しさとは食い違うかもしれない。
私は私の正しさを胸に、小学校以来の大切な友達を裏切った、騙した。拒むことも可能だったけど、それを選んだのは私の意志。嫌われる、今までの関係を私が壊してしまう、その覚悟は決めたつもりだったけど、それでも私は悩む、ぐちゃぐちゃした思いにとらわれる。それは私の弱さ。同時にそれこそが、ぐちゃぐちゃした思いにとらわれる弱さもまた私の本質。私が私であることと、世界と折り合いを付けて生きていくことは、どこかで妥協点を見つけなければならないということ。
私が私であるためには世界との妥協点を探さなければならない。だけど、世界との妥協点を探すということは、私を削ってしまう。私が私でなくなってしまう。問題はそれが悪いこととは言い切れないんだけど。だけど、良いことと言い切れないのも確か。私が削れるというのは私が今の私とはべつの存在になってしまうということ。
逆に私を私のまま通すには、世界はあまりにも複雑なシステム。世界は、心は、多体問題であり、一般的には解なんて求めらるはずがない。ある事象は回り全ての事象に影響を及ぼしてしまう。もっとも私は解はいらない。私が私を保てればそれでいいのだから。それができないからこその多体問題なんだけど。
正義や悪、正しさや過ちなんて個人・社会によって違い、あるいは時代とともに移ろいゆくもので、絶対的な基準はなく、個人が、あるいは時代が決めるもの。極論、戦争状態においては、殺人すら正義になりうる。この場合、敵兵を多く殺し、戦果を挙げたものが英雄であり、しかしそれも殺人であることは間違いない。まあ、これは極論の極論でしかない以上、今回のこととはまた別に語られるべき問題なので、これについては語らない。
余談だけど、人を殺してはいけないのは、人を殺すことが罪なのではなく、人を殺してはいけないというルールを破ることが罪なんだと言ったのは誰だったろう。これも所詮は余談でしかないのだけど。
世界は灰色で、仮想的な物語*1は仮初の色を持つけれど、それは現実という圧倒的な灰色の前には儚なく消え去るもの。確実なのは世界の灰色と、血の赤色、痛み。感情的に、発作的に、切りたくなることはある。昨日もそうだった。少なくとも今は理性が勝っているから、切りたいという感情を無理やり押さえ込んで、実際には切らずにいられるけれど、代償行為としての、仮想的なリストカットとしての、紅いボールペンで手首に線を引くのは止められない。痛みもなく、血の赤色とは違うけれど、それでも久々に壊れかけた私を安定させるだけの、少なくとも一時安定させるだけの意味はある。それも私の弱さにして、私を構成する本質。
さらに余談。意味があるということと、意味を持つということは別の問題。これ以上は掘り下げないでおくけれど。
私がもっと強ければ、1人で世界と私の妥協点を見つけられたかもしれない。あるいは私がもっと弱ければ、誰かに頼りきって答えを見つける、あるいは教えてもらうなんてこともあったかもしれない。しかし教えてもらった答えは、教えてもらった相手にとっての解であって、それは私の解答ではない。結局、私は私にとっての正しい解を見つけなければならない。それは世界にとって、客観的に、誰にとっても正しい答えである必要はなく、私はそんな絶対的な正しさ、その存在を信じない。正しさの基準は結局自分の中にしか存在しえないのだから。
私の中のぐちゃぐちゃしたものを言語化するのは難しいね。形のないものを無理やり形に、言語ではないものを言語にしようとしているのだから当然といえば当然かな。思考と、思考を言語化したものは別物。なるべく近くしようとする努力は可能だけど、永遠に同一にはならないんだと思う。
んー、今日もまた戯言モード全開な内容になっちゃってる。まぁ、それも私の本質なんだろうけど。無茶苦茶だけど、私がそういうモノであるからしょうがないか。そしてそれをどうにかしようと足掻くのも、また私。

*1:小説、漫画、ゲーム、暴走する妄想、なんでもいい。つまりは現実でないもの全て